(1939~)
証言日:2013年7月28日
今まで、原爆に遭ったことを話したことがなかったと思います。実家でも母が一番悲しい思いをしましたし、家族の間でも互いに話題にしませんでした。
ただ、母は私が結婚した後、姉の子どもたちが夏休みに来たときには、よく話していたようでした。親戚の伯母が、満州から引き揚げてきた時のことをよく話していたのに、実家では被爆時のことを話し合ったり、
8月6日に黙祷はしてもすぐ日常生活に戻りますし、式典にも、中学生の時に友達と一度行ったきりでした。私の人生の中では、オウムの事件、3・11(2011東北大震災)のことの方が、一番心に残るもので、被爆は別のものでした。
何年か前、森澤一由牧師がアンケートを取られたとき、私も年をとったから、そろそろ、自分の体験をきちんと整理してお話ししたほうがいいかなと思い、今回、沖村裕史牧師に勧められたのを機に初めて皆さんの前でお話しします。ただ、戦争で悲惨な体験をされた方も多い中、小学校入学前の幼かった私の記憶は、プツン、プツンと切れております。すぐ上の姉が千葉に居りますので、先日電話で話してみましたが、姉は「逃げる途中、雨が降ったような気がする」と言いますが、私は全く覚えておりません。私の覚えていることを姉は記憶がなく、母の生前にしっかり聞いておくべきだったのに…と残念です。
当時私たちは皆実町に住んでいまして、川向こうに広島ガスのタンクがあったのを覚えています。戦争が拡大し、父もいよいよ外地に行くので、最後の面会に来るよう連絡があった時は、東京から遊びに来ていた母方の祖母も居ました。2歳になる妹を見てもらうために、帰京を延ばしてもらっていたのです。また、母は当日、建物疎開の当番でしたが、町内の人に代わってもらっていました。当時、広い防火帯を作るために、町内で必ず奉仕の当番があったようです。
8月5日。最後の面会だからと、縁故疎開をしていた姉と母と私と弟の4人が大竹の海兵団に居る父に会いに行きました。帰りは汽車に乗れなかったのか(当時は列車も電車も一杯で、乗れるまで待ったと思います)駅のホームで1泊し、8月6日の朝早くの列車で広島に帰りました。駅から皆実町の家まで電車ですので、また行列です。何台も待つ間、姉がトイレに行きたいと言いだし、また、並び直すのかと、冷や冷やしたことは覚えています。
やっと電車に乗り、出発してすぐ、猿猴橋電停の前の、今もあります広島信用金庫の建物の陰に電車が入ったとたん、周りが明るくなり、ガタガタと電車が揺れて止まり、母が、私たちを抱えるようにしてしゃがみ込みました。しばらくして、電車を降りると、ずっと先まで見渡せ、私には何がなんだか分かりませんでした。線路に沿って歩いて帰りましたが、途中燃えている家の前で、2人の小さな子が手をつないで大泣きをしているのを見ました。弟が、靴か下駄だったか覚えませんが、片方なくして、母の履物を借り、母が足袋で歩いていたのも記憶しているのに、夏なのに足袋を履いていたのかなと、今考えると不思議に思います。ただ、ガラスが散乱し、ガタガタの道を歩いて怪我をしなかったのは、たぶん足袋を履いていたからだと思います。姉はぜんぜん覚えがないそうです。
家が見えるところまで帰りましたが、家は倒れ、周りの家も全部倒れていました。近所の人から、祖母が妹を連れて救護所へ行ったと聞き、家の中まで入らず、すぐ救護所に行きました。後から聞くと、その人も混乱していたのか、隣のおばあさんが妹を連れて逃げてくださったのでした。近所の人もみんな興奮状態だったと思います。ボーっと立っている方もいらっしゃいました。県立広島一中に入ったばかりのシンちゃん(この人は優しく、小さい子どもとよく遊んでくれたので覚えています)が、「母はどこですか」と聞いて回っていましたが、顔は腫れ、服もズタズタで、だれもシンちゃんとは分からず「あんた、シンちゃんね!」と誰かが大声をあげたのも覚えています。
私たちは、すぐ祖母と妹を探して救護所や病院辺りの防空壕を訪ね、祖母の名前、妹の名前を呼んで歩き回りました。大きな声を出すのですが、防空壕の前で、モンペ姿に、上は白いセーラー服を着た若い人が「おばさん、水をください。水をください」と呼びかけていたのも覚えています。「水、水」とみんなが叫んでいました。
日赤だと思いますが、病院前の広場に、人がずらりと寝かされているのを見ました。服か皮膚なのか両手から何かぶら下がったまま手を挙げて、病院に来る人も大勢でした。薬を塗ってもらった人は、まっ白い塗り薬だったと思います。こんなありさまですから、母は子どもたちを連れていては祖母も妹も見つけられないと、思ったのでしょう。ここで記憶が飛んでいるのですが、当時私の家に下宿していた、薬学部出の叔父とどこで出会ったのか、私たちを町内の避難所とされていた場所に連れて行くように頼み、母は1人で、また探しに行きました。
母と離された弟が疲れもあったのでしょう、ぐずりはじめ、ワンワン泣き出しました。叔父は「泣いたら、ここへ置いていく」と叱り、「置いていかれたらどうしよう」と私まで泣きそうになりました。この叔父は私がもっと小さいとき、「泳ぎを教えてやる」と海の深いところヘドボンと落としたことがあるので、怖くて心細い思いでした。大きくなって、叔父に恨みごとを言ったことがありました。
ちなみに、私は結婚してから、原爆手帳をもらいましたが、静岡で薬局をしていたこの叔父に証人になってもらいました。叔父が亡くなる数年前のことです。
8月6日の夜は、避難所だった皆実小学校でムシロを敷いて寝ました。そこで祖母は柱の下敷きになり、妹を隣のおばあさんに託した、と聞きました。結果的に、祖母は亡くなったのですが、私たちが広島駅から家の前まで帰ってきた時には、まだ、家は焼けていなかったので、母は、壊れた家に足を踏み入れておれば祖母に会えたのか、火事の前にすでに息絶えていたのか、それとも焼け死んでしまったのか、帰京を延ばしてまで、こんな目に遭わせて自分の兄姉に申し訳ない。また、当番を代わって下さった奥さんはどうされたかと、母はその後もずいぶん苦しんだと思います。
妹は隣のおばあさんのおかげで、小学校に居りましたが、目や手に無数のガラスの破片が突き刺さり、目を閉じていることができず、目を開いて寝ていたので、心配でたまらなく、母に「どうしたんかねー、どうしたんかねー」と何度も聞いたのを覚えています。
夜、「ボーン」と音がして、皆がビックリして音がした方を見ると、すごい火の手が上がり、「あー、ガスタンクだ」と言う声を聞きました。その日1日、何を食べたのか、水を飲んだのか全然記億にありません。
翌日の朝、大八車でおにぎりか乾パンを配っている人がいたことは覚えがあります。広島に家族がある者は帰っていいということで、戻ってきた父の(私は覚えていませんが、姉は覚えていました)実家がある倉橋島へ行こう、ということになりました。途中通りかかったトラックに乗せてもらおうとしましたが、どれも人がいっぱいで、「けが人だけだ」と言って取り合ってくれません。けがをしていた妹の姿を見せて、無理矢理乗せてもらい、やっと広島を出ました。
戦争はなくさなければ、と思っても、「未だ平和にならず」。長い間悲惨な思いをされた人も多いし、ノーモア・ヒロシマも若い人に伝わるのか、私のわずかな記憶で喋っていいのかと悩みますが、他の戦争とは違う原爆の影響の大きさを思うと、核爆弾は許されるものではないと感じます。また、何年か前、市民劇場のサークルで「はだしのゲン」を観ました。あまり観たくないと思いながら、観劇したとき、途中で薄い紗のような幕が下り、向こうを、ボロボロの焼けた皮膚や服を下げた人物が横切って行く場面があり、その時、吐き気がしました。私自身思いもかけずびっくりし衝撃を受けました。記憶とまた別の感情が、突然出てきたのでしょうか。今も苦しい感情が胸にあります。
聞いていただき、ありがとうございました。
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