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被爆証言 賀口 ハル子

賀口 ハル子

賀口 ハル子

(1927~2018)

証言日:2011年7月31日

 私は、英語が習いたいばかりに広島の女学校に入りました。そうしたら、戦争がひどくなり、英語は使ってはいけないということで廃止になってしまったのです。そして、今度は学徒動員で兵器しょうや被服支しょう、または食糧増産のために奉仕ばかりして、女学校時代は勉強しておりません。では、これから原爆の証言をいたします。

 1944(昭和19)年3月に高等女学校を卒業することができましたが、同時に挺身隊として呉の海軍工しょうに送られました。初めて親元を離れての寄宿舎入り。しかもまだ、満年齢で16歳でした。夜は毎日寂しさのあまり泣いてばかりでした。ところがしばらくして、軍当局が特殊爆弾の研究を目的としていた広島文理科大学(現広島大学)内の研究室に配置換えになり、この時は小躍りして喜びました。以来、自宅からの通勤が可能となり、早起きを強いられながらも、楽しい毎日でありました。

 1945(昭和20)年8月6日、いつものごとく朝早く起きて、身支度をして、私の故郷である玖波駅から汽車に乗り、広島駅で下車、市内電車に乗り換えて市内の千田町にありました広島文理科大学へと向かいました。その日はものすごくよい天気でありました。職場へ入ると友だちと共に掃除など済ませて、おしゃべりをしながら休憩していたところ、突然ピカーッと光ったのです。こんなに良い天気なのに、こんなに大きな稲光が、と思っていました。

 気が付けば窓ガラスは粉々に破れて飛散し、瞬く間に部屋の中の書棚はもちろん、建物自体が倒壊して私はその下敷きになっていました。何がなんだか分からないままに、柱と柱の間に挟まれて、身動きできないままうずくまっていました。男の人の「燃えているぞー。早く出ないと焼け死ぬぞー」の声が聞こえて、我に返りました。これは大変と力の限り柱をはねのけて外に出ることができました。友だちはどこに行ったのかと名前を呼ぶと、「ここにいるよー。腰が柱に挟まって出られないの」と泣き叫ぶように聞こえてきたので、助けを呼んで引っぱり出すことができました。

 「ここにいては危ないから家に帰ろう」と友だち4人で、大学の外に出ましたら、2、3歳くらいの女の子が三輪車で遊んでいたのであろうか、三輪車と共に倒れていました。ヒクヒクと息はあるようでしたが動かないのです。私たちはどうすることもできず、女の子の姿を横目で見ながら助けることもできません。また、荷馬車を引いていたのか、大きな馬が路上に横たわって死んでいました。

 街の中は修羅場のよう。衣服を爆風に吹き飛ばされたのでしょうか、女の人が裸で歩いています。 友だちが予備のズボンを持っていたので、そっと渡して着てもらいました。

 わが家を目指して走っていると、街は火の海のように真っ赤に燃え始めました。その中を、どこからやって来たのか、女の人が走っている人を呼び止め、「助けてください。うちの子が家から出られません」と叫んでおられる。でも、誰一人として助ける人はありませんでした。日赤病院の前も、たくさんのけがをした人が治療をしてもらうために集まっておられましたが、私たちは一刻も早くわが家に帰りたいと、走って走って逃げました。

 その時です。周りは一転、瞬く間ににわかにかき曇り、暗闇となり、突然に黒い雨がザーと降りました。それを避ける間もありませんでした。黒い雨を浴びながら走っていましたら、「広島駅はもう汽車は走っていないからだめだ」と誰かの声が聞こえました。また、江波の方に向きを変えて走りました。でも、川に架けられていた橋は破壊され、渡ることができず、大勢の人が川のほとりでうずくまっておりました。私たちもどうしようかと戸惑っていましたが、兵隊さんが丸太で仮橋を作ってくださるなどして、ようやく己斐駅辺りまでたどり着き、ここでまた、「山陽本線下り方面の汽車は廿日市駅で折り返し運転をしている」と聞き、軍送用トラックに便乗してやっと廿日市駅に到着して、さらに汽車に乗って玖波のわが家に帰ることができました。

 その後、下痢が1週間位続いた上、「無傷で帰った人でも3年以上は生きられない」との噂が広まりました。不安が募ってまいりましたが、両親の愛情ある看病のおかげで健康を取り戻すことができました。深く感謝しています。

 原爆から2カ月くらいたって、大学のことが気になり広島駅まで行きましたが、駅に立つと一面に焼け野原になってしまっていました。今まで見えていなかった大学が、黒焦げの赤レンガになりポツンと残っているのが見えました。私もちょっと気分が悪くなって、その場を立ち去りました。

 なお、あの時の友だちとはバラバラになって消息が絶えてしまいました。しばらくして、1人は亡くなられたと聞き、はなはだ残念でたまりませんでした。

 今思えば、あの惨状の中で、一刻も早く逃げ去りたいばかりに、多くの人々の悲惨な状況を横目で見ながら立ち去ったことが残念でたまりませんでした。どんな時であっても、戦争は決していけないと思いました。

 また、私は原爆の体験は言いたくない、語りたくないと常に思っていましたが、1人でも多くの人が語り続けることによって、戦争を知らない子どもたちのために、また二度と戦争を起こさないためにと思って、今日、ここで語ることにいたしました。

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