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被爆証言 吉浦 紀子

吉浦 紀子

吉浦 紀子

(1927~2020)

証言日:2010年8月29日

 原爆投下の朝、いつも通る広い道に差しかかった時に、どうしたことかその朝に限って、「今日は少し遠回りでも2筋向うの静かな細い道の千田町を通ってみようか」と、急に変更して少しばかり行っておりましたら、頭の上のほうで、パツっとなにかはじけるような、かすかな音がしたので、とっさに指で耳と目を覆って、公共の建物に跳び込みました。しゃがんだ途端に外で、もの凄い音がしまして、これは家が倒れると思ってまた外に出てみました。事務所の人たちも口々に「今のは空襲だね、大変だ。すぐに家に帰ってごらんよ」と言われたので、息せき切って走って帰っていると、ちょうど私の前にいた人が急に振り返って「あんたもこの道を通って助かったんじゃね。向うの広い道を通った人は火傷で血だらけで、吹き飛ばされて死んだ人もいるらしいよ。お互いにこれからがんばらにゃあね」と元気づけられました。また走りながら、あちこちで家が壊れて、泣きわめく声が聞こえてきて、もう恐ろしくて、ブルブル震えながら、やっとの思いでわが家に帰りました。部屋の一部が少しだけ壊れておりましたが、両親は元気で私を迎えてくれました。

 そのうち長女の姉が無事に帰ってまいりましたが、もう1人の次女の姉はなかなか帰って来ないので探しに行くことになりました。どうにか己斐駅の辺りまで歩いて行って、広島市内を振り返ってみましたら、原爆投下のために、建物などの姿はもう全くなく、そばで立ち話などをしておられた人たちが、「ちょっとみんな吹っ飛んでしもうて何もないから、広島駅まで丸見えじゃね。いつになったら電車が通るようになるかねえ。まあほんまにこれは地獄よね」と。この言葉を後にして、また姉を探しに歩き出しました。

 中心地に近くなると橋の上で何人もの人が、灰色のヨレヨレになった薄い布を頭からかぶったり、あごの所や手先までそのようなその細い布を垂らして、ボーッと立っておられるのを、初めのうちは焼けた着物かなと思っていましたが、歩いていくうちに、これは焼けた皮膚がはがれて垂れ下がっているんだと気が付きました。もう涙が止まらずしばらく放心状態でその場から離れることができませんでした。全く筆舌に尽くしがたい思いでした。その後ずっと姉を探し続けましたがついに帰らぬ人となってしまいました。

 悲しい日々を送りながら、私も大人の仲間入りができる年頃になりましたが、どうも体調が思わしくなくて、病院で診察を受けました結果、骨髄液の検査で、白血球減少症と再生不良性貧血ということでした。原爆による症状なので、もうこれは食事でしか血を増やすことができないので、ずっと高タンパク質の食事を続けるようにとお医者さんから言われました。私は子どものころから大食でしたから、これ幸いとばかりよく食べて現在に至っておりますが、当時すぐに病院での検査が始まりまして、通院のため時間調整が大変だったことを覚えております。

 長年原爆症で苦しい思いをしてきましたが、一つの大きな助けとなりましたことは、母校の広島女学院中学・高校で教壇に立ったことでした。毎日どのクラスの生徒さんも真面目で、生き生きと授業に臨む姿に接しまして、私も命の続く限り全力で授業に専念しなければならないと思いました。多くの人々に支えられて今日まで生かしていただけましたことを、心から感謝しております。

 70年ほどは住むことができないといわれたこの広島が、今ではこのように活気のある街並みに変わりまして、平和な日々を送らせていただいております。しかし、原爆の犠牲になられました多くの人々の苦しみを決して忘れず、この体に刻み込んで生きていかなければならないと思っております。

 次の世代を担う人々が、私たちのような苦しい体験を二度とされないように、世界平和のために努力していかれますように、心から、心から願っております。今日はありがとうございました。

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