(1932〜)
証言日:2015年8月9日
平和聖日礼拝でのメッセージ
お招きをいただいて、新しくなったこの教会堂で初めて礼拝を共に守らせていただきます。皆様と時間を共有することができますことを深く感謝しております。
私たち、心の痛みを体験した者にとって最も大切な支えは、“信頼し、愛する親しい人たちに囲まれ、私たちの苦しい体験を傾聴していただき分かち合って、励まし支えていただくこと”です。それが何よりの心の癒しになります。
私は、長い間海外生活をしておりますけど、広島に帰りますと家はなくなっていますし、家族もほとんど亡くなっております。でも、私にとって広島女学院という母校と、この広島流川教会という母教会によって、“私はここで生まれて、ここで育てられて、この街に属する者”という帰属感を強く持つことができ、また里帰りをしたという思いで、皆様方とひと時を過ごすことができます。
どうぞ、楽にして私の体験や、想いを聴いていただきたいと思います。その中から皆様方がいろいろ感じることがあればそれを行動に移していただきたいと思います。
被爆70年記念日に広島に行きたいという希望は、長くありました。遠くから亡くなられた人たちの冥福を祈る。それは確かに役に立ちますけど、やはり肌で感じられるような近い距離でその人たちと共にあの日を思い起こしたい。こんな思いをもって、このたびアメリカで一緒に運動する人たちと帰って参りました。
帰ってみると、NHKなどいろんな人たちが、私が働いていた第二総軍司令部(※)跡地で「ここに第二総軍司令部があったのですよ。お気持ちはいかがですか?」と即座に聞かれるのです。
この言葉に随分考えさせられました。何十年ぶりかにあの日に経験した場所に連れて行かれて、即座に返答があるかのように「どのように感じるか?」「短い言葉で聴衆の皆さんにすぐ分かってもらうように返答して」と言うのがメディアの人たちの期待ですけど、そういう訳にはいかないのです。「私の思いはありますけど、言葉はございません」と無視したわけです。
もちろん帰ってきて、街が美しくなって水は綺麗だし緑の木や草が多く、本当にそれは喜びであります。でもあの日のことを思うといろいろと心が痛み、まして体験した所に連れて行かれると、複雑な気持ちが巡ってまいります。だから、喜びであり悲しみであり、またお詫びの言葉もある訳です。
あれから70年たっているのに、未だにあなたたちにお約束した核軍縮ということができていません。お詫びというか罪の意識というか…そういう気持ちも随分あります。そして怒りもあります。70年たっても軍縮をしようという政治的意識のない核保有国。もっともっと強力な核兵器を持ちたいと考え、軍縮の気持ちが全然ない。こういう現在の国際政治のあり方。私の中に怒りとか悲しみとか喜びとか、いろいろな情感が交錯している訳です。それを一言で言えるはずがないのです。私が記憶したものを時間をかけて一つ一つを大切に思い起こして、それなりの心の整理をしたいと思っております。ですからNHKさん他、誰にでも「今の気持ちを即答はできません、言葉もございません」と終えてしまいました。この気持ちをご理解ください。
一昨晩、初めて自分の自由な時間が取れました。広島に来ていろんな会議、レクチャーに呼ばれ絶えず忙しく動いていました。おまけに痛風になり、少し体調が悪くて3日ほど日赤病院のお世話になりました。そういう状態の中、外国からのお客さまたちも皆さんお帰りになった後、1人ホテルで考えたり感じたり思い起こしたりしていました。ですから、結局一昨晩は一睡もできなかったのです。それまで忙しくて何もできなかった、やっと1人になれてワッと洪水のようにいろいろな思い出とか感情とかが私を襲いました。
昨日の朝早く、松井一實市長と会談があり、その会談の様子がテレビで流されたそうです。それをご覧になった人が市長室と連絡をお取りになりました。その人のお姉さんが私の同級生で、しかもお父様は私が学徒動員で働いていた第二総軍司令部で通信員をしていらしたそうです。そのお父様が「私を暗黒の中から掘り出した」と家族の方にいつもお話されていたそうです。私と同級生の八木ケイコさんはもう亡くなられたそうで、弟さんから昨日の朝突然お電話をいただきました。
広島に来て思いがけない経験をしました。八木さんの経験を涙なしでは聞くことができませんでした。その弟さんに広島流川教会で私の思いを分かち合いたいと思いますので、ぜひ礼拝にご出席くださいとお誘いしました。今日この礼拝に来ていらっしゃいます。八木さんです。
八木さんはあの日、雑魚場町(現国泰寺町)に広島市内の全部の高等学校から数千人が動員されて犠牲になった1人なのです。そこは中心地に近くて、摂氏3000~4000度の熱でみんな焼かれてしまった場所なのです。
今日の礼拝後に皆さんに歌っていただきたいのは『主よ みもとに近づかん』(320番)という讃美歌です。それには特別な意味があるのです。あの時に何千人もの学生が瞬間に天に召されました。その時に生き延びられた村本さんという人が、広島女学院に帰って皆さんがお亡くなりになる直前の 様子を私に話してくれました。
泥水の中を這い歩きながら、数学の米原睦子先生が「皆さん動ける人はここに輪を作りましょう」と言われみんな集まって来て讃美歌を歌いました。その一つが『主よ みもとに近づかん』という讃美歌だったそうです。それを歌いながら一人一人亡くなっていった…。まだ生き残っている人たちに先生が「歩ける人は日赤病院に案内しましょう。私の肩にすがってください」とおっしゃったので、村本さんは先生の肩に触った。そうすると、筋肉も皮膚もスルッと剥けて肩の白骨が見えたと言っていました。その先生は日赤病院で2、3日苦しまれたそうですが、多くの人と同じようにほとんど手当もなくお薬もなく床の上でお亡くなりになられたと聞いております。
その時のことを思い、あの讃美歌を歌うと涙が止まりません。そういう事実があったということ、生き延びた私の親友から聞いたことを皆さんに覚えておいていただきたくて、共に讃美歌を歌っていただきたいと思います。
広島女学院に入学した当時、門を入りますとコンクリートでできた小さな建物がありまして、これを御真影といっていました。天皇陛下と皇后陛下の写真がそこに
英語を習うのは嬉しかったのですが、「英語は非国民の外国の言葉だから勉強してはいけない」とか、礼拝にまで憲兵が入って来て、礼拝中どういうことを話しているのか、厳しい顔でノートに記していました。学友や先生方は
体操の時間には「竹刀を使って敵が上陸してくれば、その尖った先で上陸軍のお腹を突く」。そういう防衛の準備をさせられていました。
2年生になると、ほとんどクラスでの勉強はなかったですね。毎日のように動員されて農村へ送られ、じゃがいもを掘ったり田植えをしたり稲刈りをしたり、タバコのパックを作って前線の兵隊に送るとか被服
あの日にどのような体験をしたかお話ししましょう。1945(昭和20)年4月ごろ南太平洋上にありますテニアンとかサイパンが占領されると、遠い日本へ一足飛びに飛行機が飛んできて、焼夷弾で街を焼き尽くすというアメリカの戦略が始まりました。東京に始まり、大阪、名古屋と、主要な都市の60%は焼夷弾で焼かれたと思います。東京は一晩に10万人の死者が出て、幼子も老人も軍人も全て無差別みたいだったようですね。
広島は日本で10番目の都市ということになっていました。我々の番もやがて来るとみんな覚悟はしていましたが、いつまでも広島は攻撃されません。呉とか柳井とか小さな町は焼かれても、広島はいつまでも爆撃がない。何故だろう。みんな心配し始めました。
噂も飛びました。「広島はアメリカへの移民を多く送った所だから、きっとアメリカは感謝して我々を攻撃の的にしてないのだろう」。とそういう身勝手な噂を作って流していました。しかし、現実は「アメリカ軍は既に広島を新しいタイプの爆弾の対象としているので、普通の焼夷弾で焼かないこと」と 命令がアメリカ本部から出ていたのです。
被爆の3週間前、学生ばかりだったか30人が選ばれ、私たちは雑魚場町とか農村とかの奉仕じゃなく、軍隊で暗号を扱う大切な仕事に選ばれました。二葉の里(現大須賀町)に第二総軍司令部があり、毎日そこで暗号を作ったり解読したりする訓練を受けていました。ちょっと考えてください。13歳の子どもが大切な日本のトップの秘密を扱う仕事を与えられたということは日本がどれだけ切羽詰まった立場に置かれていたかお分かりになると思います。
8月6日は月曜日で、いよいよ今日から正式な暗号解読員として軍隊のために働く最初の日でした。私は駅前で他の学生と出会い、皆が集合した時に私が「出発」と号令。みんなで隊列を組んで歩くのです。そして、軍隊の前に来ると軍営が立っているので、「かしらー!みぎ!」と、まるで軍隊の少年兵のようにして軍舎に入って行ったのを覚えています。
8時に木造の建物の2階に上がりましたら、柳内少佐(私たちの世話をしてくださった人)を中心に朝礼をしていました。柳内少佐は「あなたたちは選ばれて尊い仕事につく幸運を感謝せよ。素晴らしい訓練を受けて忠実な日本国民として天皇に報いる時が来たのだ。頑張れー!」というようなことでした。私たちは「わかりました。最善を尽くします!」ってね。
今考えても信じられない生活ですけど…。その時「パッ」と窓いっぱいに青白い閃光が走りました。その瞬間私の体は宙に浮きました。そこまでは記憶にありますけど、私は意識を失ったのだと思います。
気が付いた時は真っ暗闇、そして静寂。本当に静かでした。真っ暗闇で静寂の中、今何かが起きたということは理解できましたが、身動きをとることができない。「私はこれで死ぬのだ」と思いましたが、ちっとも心の動揺はありませんでした。
しばらくすると、周囲からか弱い微かな声で「お母さん助けてください」「神様助けてください」と言うクラスメイトの声が聞こえ始めました。安藤さんの声は今でも私の耳に響いています。みんなと一緒にいるという自覚はありました。
すると突然、男性が私の左肩を後ろから激しく揺さぶりながら「諦めるんじゃない、体を動かし続けろ!私はあなたが身動きできるように手伝っているのだ。重い梁はりだとかいろんな物が私の体を押し付けていたのだと思います。それを動かしてやっているんだ、だからあなたも足で蹴けり押し続けろ…そしてあそこから微かに光が入ってきているだろう…あれに向かって一刻も早く這って出よ」という大きい声が聞こえたのです。暗黒でしたから私はどなたか顔を見ていません。這って出てきた時にはすでに火の手が上がっていました。
私と同じ部屋にいらしたクラスメイト30人ばかりの人たちは、まだ息があるうちに焼かれてしまったのです。同じ場所から這い出て来たクラスメイトが2人いました。1人はもう亡くなりましたけど、もう1人の人とは先週再会しました。
あれは、朝の8時15分に起きたのですが、外に這い出てみるとまるで夕暮れのように暗かったのです。しばらくして目が慣れてきますと、暗闇の中で何か黒い物が動いているのが見えました。その動いている物が人だと分かってきましたが、その人たちは人間に見えなかった。奇妙なことに女性の髪が下に降りずに天に向かって逆立っているのです。そして手足がなくなっている人、顔も身体も血だらけ泥だらけの人…爆風で衣類が飛んでしまって裸のような人。走っている人は1人もいませんでした。
奇妙なのは非常に静かだったのです。時々阿鼻叫喚の中を…と書いている人がいますが、それは私の経験にはありませんでした。本当に気持ちの悪いほど静かなあの場で、皆ソロリソロリと町の中心地から郊外へ向かって歩いていました。走っている人は1人も見ていません。大きな声で怒鳴っている人もいません。もうできる限りの体力と気力で「水をください、お水を…お水を…」。それだけ聞こえてきたのです。
遺体や重症の人が横たわっているのを踏まないように気をつけて、私たちは二葉の里に逃げて行きました。兵隊さんたちから、「あなたたちはあの人たちと一緒に逃げろ!」と言われました。一緒に逃げた人の中に、ご自分の目玉が出ているのを手のひらで持ってかかえるようにした人がいました。バタンと地面に倒れた人は、お腹が裂けて中から腸がまるでソーセージのようにはみ出していました。今考えれば本当によく平気で生きられたと思います。あの時点ではわれわれの精神は麻痺の状態になっていたのだと思います。
とにかく二葉の里の丘の所まで逃げました。戦前の二葉の里は、今の新幹線に近い山の方なのですけど、あそこは騎兵隊の広い練兵場だったのです。馬に乗って騎兵たちが訓練をされる非常に広い場所、フットボールのフィールド2つを一つにしたぐらいの所を子どもながら歩いて山に行っていたのを覚えています。
そこに着いた時その場は死体がいっぱいでした。何千人でしょうか…。私が聞いたのは、皆さん「水、水、水…」、それだけだったのです。私たちは、まだ傷が浅かったので何とかお役に立ちたいと思いながら水を運ぶバケツもコップもない。それで考えたのが、近くの川に行って血や泥を洗い落とし、私たちのブラウスを
翌朝、兵隊がメガホンを持って来られて「中村節子はいるかー!」「ご両親だ!」って。驚きました。両親が迎えに来てくれたのでした。
父はその日、朝早く宮島の方に行って魚釣りをしていたので助かりました。真っ白い雲が上空に上るのを見て広島で何か事があったと思い、宮島口まで船で行って、電車がまだ通っていたので電車で井口駅まで行き、それから歩いて広島市内の家がある所まで帰ってきました。家は崩壊していたけどまだ焼けていなかったそうです。
母は朝食後のお皿洗いをしていて生き埋めになったけれど、助け出されて安芸郡の府中町の方に逃げました。しかし、あの前夜、疎開していた私の姉がお医者さんに診ていただかないといけないので、一晩早めに4歳の子どもを連れて帰って来ていました。その日朝早く起きてちょうど柳橋の上を歩いてお医者さんの所に行っている瞬間に親子共に焼かれて、翌日見た時には身体が2倍にも3倍にも腫れ上がっていました。「水、水…」と4歳になる子どもが水を求め続けました。
2人共亡くなった時、兵隊さんたちが地上に穴を掘って死体を投げ込んで石油をかけてそしてマッチを投げて、竹で体を動かしながら「まだ腹が焼けてないよ」「脳みそが焼けてないよ」と言葉を発しながら作業をしていました。13歳の子どもがそこに直立して両親と共にいわゆる火葬…
結局、大学に行って大学院に行って心理学を勉強し始めて、一体人間って究極の場ではどういう行動をとるのだろう。何がノーモアで、何がノーモアでないのか?「何故私がああいう行動をとったのだろう?」と非常に興味・関心を持って学びました。
1960年代に広島に6カ月ばかり滞在し被爆者の心理を研究しにいらしたアメリカ・プリンストン大学のリプトン先生の研究成果が世界的に有名なのですが、良いこともあまり良くないこともおっしゃるので、被爆者の中にはそれに反発する人がいらっしゃいます。私もその人と会ってお話したことがありますけど、私にとって1つ救いとなった彼の説があります。あのような究極の事件では、思考能力はまともでも、例えば火がコッチから来るからアッチに逃げるとか、思考能力はまともでも感情が閉ざされるのだと。外的刺激が巨大でありグロテスクであると、我々の再起を守るために心理的活動が閉鎖されるという説を出され、私はそのことで非常に救われました。私がとった行動が非人間ではなくて、そういうことを多くの人が同じように経験したということも学びました。皆さんの体験を聴いたり書かれた物を読んだりして、いろんな苦しいこと、思いがけないようなことがあっても涙一つ出なかったのです。
佐々木さんという学友は、翌日家に帰られたら家族全員が白骨化してそこに埋もれていた。けれども、涙が一滴も出なかったということを私に話してくれました。そういう人が随分いらっしゃいます。ですから、私は自分が怖がっていたような非人間ではなかった、あれは自然に心理的反応が起きたのだと思えることが救いでした。私は姉や甥の死を思う時は、いつも自分の苦しみの対象に自分の心の動きと共に覚えております。
原爆での被害っていうものは爆風で私のように生き埋めのようになって苦しんだ人、手足がなくなったり、圧迫されたりした人たちと同時に火傷でものすごく膨れ上がるという死傷者も数多くありましたけど、原爆でユニークなことは放射能の関係でした。放射能という物は非常に不可思議な状態で人間を苦しめるのです。人によっては瞬間的に亡くなる人、あるいは1カ月後あるいは1年たってあるいは折り鶴のサダコさんのように10年後に後遺症で亡くなられた人もたくさんあります。あの当時、生き残って全然外傷もなく「良かった、良かった」と皆で喜び合った人たちにおこるのです。
叔父や叔母が牛田に疎開して助かったので良かったと思っていたら、10日後には身体に紫色の
あの頃は、内部被曝の言葉もよくわからなかったです。紫色の斑点っていうのが非常に怖い物のシンボルでした。あの当時、私たちは朝起きてまず一番に身体中隅から隅まで調べたのです。それがあれば死ぬのだという証明になるので、毎日毎日恐れを感じながら生きていました。
もう1人の義理の兄も雑魚場町にいまして、未だにどこで亡くなったのか分かりません。私たちは一生懸命探しましたけど、紙の上では行方不明になっています。ですから、皆さんに説明する時は体験させられた叔父だとか叔母の状態、あるいは火傷で膨れ上がって亡くなった姉などの例を通して皆さんにお話しているのです。
あの時の地上の温度が4000度だったということ。考えられないような温度です。普通鉄が溶けるのは約1500度じゃないですか。被弾した時は600メートル地上で温度が1000000度以上だったそうです。それが地上に降りてきて3000~4000度まで落ちてきた。そういう考えられないような怖い状態でした。
その後のみなさんの苦しい生活はいろんな物を読んでご存じだと思います。
8月6日に広島、9日に長崎、15日に終戦。「敗戦」ですけど、われわれは「終戦」と呼びます。9月初旬には進駐軍がやって来て、それから7年間占領下でいろいろ苦しみました。
一般的にはマッカーサー
でも、人間にどれだけ悲惨なことをどの程度やったかということを書くということは許されなかった。朝日新聞などは発行することをしばらく止められていたのです。「民主化とは言論の自由」と言いながら、事実は言論をコントロールしていたのです。ただコントロールするだけじゃなくて人間の作った物、例えば苦しみを俳句に書くとか、詩を書く、日記に書くとか手紙を書く、そういう個人的なものも没収して、32000ピースだったと思いますが、全部アメリカに送ってしまったのです。フィルムだとか医学的調書とか、人間にどのような悲惨さをあの爆弾がもたらしたのかということを書くのは許されな い政策だったのです。
ABCCのこともご存じだと思います。あの時、薬もなくお医者さんたちも被爆した人たちをどう扱ったらいいか新しい知識もない時に、アメリカがABCCを作ってくれる。我々の生活にプラスになるだろうという期待はあったのですが、目的はただ一つ、あの爆弾によって原爆によって人間の身体にどういう影響を与えたかというのを研究するのみで、治療するということが目的ではなかったのです。
ここで話を飛ばしますが…。
私は広島女学院で10年間お世話になりました。その10年間この広島流川教会と交わり、皆さんたちの生きる姿、キリスト者としてどういう生き方をしなきゃいけないのだということ、やはり言葉だけではなく行動で毎日毎日繰り返していらっしゃる立派な先生たち、お友だちの姿を見て学びました。
これまで私は一生をかけて平和運動に尽くして来ましたけど、原動力になったのはやはり広島女学院やこの広島流川教会で受けた感動です。今では皆さんから習ったこと、教えられたことを実行しただけだと思うのです。
あの苦しい時に、谷本清牧師がいろいろと奮闘なさって何度もアメリカに足を運ばれて帰って来られてからは、孤児の世話だとかあるいは母子寮だとかいろいろな運動を始められました。教会員によっては、教会の牧師なら次の日曜日の説教の準備のために教会にいるべきだと言われる人もおられたそうです。でも、若い私にとっては聖書の
私は、大学卒業後アメリカに留学しました。それは1954(昭和29)年、日本人にとっては大切な年でした。というのは、ビキニ環礁で最も大きな水素爆弾の実験をアメリカがやった時です。あの時のことを覚えている人もいると思いますが、若い人はどうぞ、広島と長崎だけではなくビキニにも核兵器が使われたことも勉強してください。
アメリカが、核兵器を開発した時に私は留学したのです。随分苦しい目に遭いました。アメリカに到着するやいなや記者会見があり、日本で起きたことをどう思うかと、即座に私の所に来て聞かれ、ナイーブな問題でしたが、言いたいことを全部言ってしまったのです。そうすると、その翌日から大学へ脅しの手紙が来るようになりました。「誰が奨学金を出していると思っているのだ!」「帰れ!日本に帰れ、すぐ帰れ!」、もっともっとひどい脅しの手紙がどんどん大学に来るようになって、私はクラスに出るわけにはいかなくなり学長さんが私をかばってくださいました。そういう手紙は匿名で届いたのですが、全部、学長の所に持って行って、私には手渡さないようにと。私は1週間ばかり一人ぼっちで先生の家で過ごし、教室に行くことができず本当に孤独な苦しい思いをしました。
アメリカに着いた途端にこういうことがあったのですもの、私はいったいどういう所に来たのだろう。広島の宣教師の先生たちに「あなたはちゃんと英語もよくできるし、アメリカの大学についていくことが十分できます。社会福祉を勉強して帰って広島で活動しなさい」と皆さんから祝福を受けてアメリカへ来たのですが、着いた途端に残酷な仕打ちで、私はアメリカで生きることができるのだろうか。本当に
1週間悶々としながら心の中をさぐり、「私にはやっぱり他に生きる道はない」と誓ったのです。この目的を達成する人材になるためにわざわざここまで来たのだ。私が被爆者であることには違いないのだ。だからどんなに苦しめられても、私は目的を達成させる。それには核兵器という物があってはいけないのだ。あのような惨めな亡くなり方をした学友たちのためにも愛する兄弟のためにも、そしてこれが全部グローバルな問題になってきていること、被爆者として私の体験を、それに基づく想いを、世界の皆さんに話し続けるのをやめるという卑怯な生き方はできない。あくまでも、普通の私の選んだ道を進むべきだ。孤独の中でそういう決断ができたのです。
1週間考え祈り続けてそういう決断に到達した訳です。そういう時がありまして60年ばかりアメリカ、カナダをはじめ世界を基盤として広島の体験と想いを話し続けています。それもたやすいことではありませんでした。「平和を語るのであればモスクワに行ってしゃべれ!」と唾をかけられたり、あるいは、広島の写真展を開催しますと爆弾を仕掛けるという脅しがあって、全員退去しないといけなかったり、空港でパスポートを取り上げられて足止めをされたり、いろいろと苦しみはありましたけど、私は精いっぱいここまで生きて来ました。個人個人に教会や学校でお話するだけじゃなく、今ではいろいろな国際会議などで世界の要人たち、非政府主義の団体、例えば、YWCAやYMCAなんかもその種類に入りますが、キリスト教会だとかいろいろな反戦の運動をしている団体と政府とが、今一緒に核廃絶に向かって努力しているのです。
9カ国の核保有国が自分たちの都合のいいように世界を動かしている。非核三条約が出来て40年にもなりますが、未だに何も成し遂げたことがありません。というのは、結局自分たちにはその蓄積した核兵器を手放す気持ちは全然ないからです。それどころか、さらに近代化し、巨大なものにするっていうのです。オバマ大統領は3兆ドルのお金を出して全ての核兵器を近代化すると言っています。百万、千万、1億じゃないのですよ。学校はボロボロになるし、医療制度もお金がなくて苦しんでいる、そういう人間のニーズというものにお金を使わないで…。
ですから、われわれが声を発さないでいられないのです。リスペクトのコンディションを知るためには、やっぱり勉強しなといけないですね。一体どういうふうに狂っているのか、本当にこれ以上狂えないほど狂っているのです。
9カ国は今持っている核兵器を手放そうとしていません。しかし嬉しいかなこの運動に入っていて感じているのは、核兵器をもたない国々、非核兵器保有国がもうこれ以上我慢できない。待っていられないというのです。核を持つ国々は、法的な責任があるのです。その人たちは軍縮に向かって努力しないといけないということを条約に書いていながらちっとも実行していない。
非核保有国はそのリーダーシップから軍縮ができると思っていたのですが、未だに40年経ってもできない。それなら自分たちでするのだと、今13カ国が非政府団体と一緒に立ち上がっています。そのために私も集会に呼ばれて行っています。メキシコとかオスローとか、この間ウィーンで会議がありました。
そういう所で核兵器の話をする時、核兵器というと「抑止力」という軍事的なものとしてしか話し合いがされなかったのです。人間に焦点を合わせてそれがいかに人間に
今その鼓動を感じています。ですから、この秋の国連の会議では何かそういう新しい動きが紹介されるのを期待しています。今までの暗黒だけではなく、暗黒の中から一条の光が見られる状態になっています。やはり被爆体験をベースにしたビジョンというものを、世界のみなさんと共有しなければいけないと思います。
日本の教会は静かだと思います。「ただ怖いことだ…あれは二度と起こってはいけないことだ、だから祈ります…」だけでは十分ではありません。そういう自覚があれば、行動に移しましょう。どういう行動かというのは、各自で考えてください。それぞれあるはずです。
私はまだまだ日本の教会は静かだと思っています。もっと声を大きくして、結局われわれの命を決断するのは我々が選出した政府がもっていますから、政府がまともな行動ができるようにわれわれがプレッシャーをかけて…。
政治の話になるといけませんが、私は非常に日本の政治がやっていることは恥ずかしいと思っています。恥じています。口で言うことと実際にやっていること、日本で言うことと国連のような所で言っていることが本当に矛盾だらけの一貫性の無い政策なのです。唯一の被爆国ですから先頭に立って核廃絶のために働かなければならない、いつもアメリカの背後にあって追従ばかり続けています。悲しい現実です。
これで終わりにしますが。私はもっと皆さんにお伝えしたいことがあったのですが…。
精いっぱい生きております。皆さんお祈りをお願いします。どうもありがとうございました。
(※)第二総軍司令部/1943年4月大本営は国内を二分、東は東京に第一総軍司令部を置き、西は広島二葉の里に第二総軍司令部を設置した。
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