

(1932〜)
証言日:2015年8月9日
平和聖日礼拝でのメッセージ
①(再生時間:24分03秒)
②(再生時間:19分56秒)
③(再生時間:22分59秒)
新しくなったこの教会で初めて礼拝を共に守らせていただきます。
私たち、心の痛みを体験した者にとって最も大切な支えは、「信頼し愛する親しい人たちに囲まれ、私たちの苦しい体験を傾聴していただき分かち合って、励まし支えていただくこと」です。それが何よりの心の癒しになります。
私は、長い間海外で生活しております。広島に帰ると家はなくなり、家族もほとんど亡くなっております。でも、私にとって広島女学院という母校と、この広島流川教会という母教会が、「私はここで生まれて、ここで育てられて、この街に属する者」という帰属感が強くなり、また里帰りをしたくなります。
被爆70年記念日にということで、遠くから冥福を祈るより、やはり肌で感じられる距離で皆さまと共にあの日を思い起こしたい。こんな思いで帰って参りました。
街が美しくなり、水はきれいで緑の木や草が多く喜びを感じますが、あの日のことを思うと心が痛みます。あれから70年もたっているのに、核軍縮をしようという政治的意識のない核保有国と国際政治。広島に帰りますと、思い出とか、怒りとか悲しみとか、いろいろな情感が交錯しているわけです。
昨日の朝早く、松井一實市長と会談があり、その会談の様子がテレビで流れたそうです。
それをご覧になった人から突然お電話がありました。その人のお姉さんは私の同級生の八木英子さんで、しかもお父様は私が学徒動員で働いていた第二総軍司令部(※)で通信員をしていらしたそうです。
(※)第二総軍司令部――1943年4月大本営は国内を二分、東は東京に第一総軍司令部を置き、西は広島二葉の里に第二総軍司令部を設置した。
そのお父様は「私を暗黒の中から掘り出した」と家族の方にいつもお話されていたそうで、英子さんは亡くなられたと。驚きました。八木さんの経験を涙なしでは聞くことができませんでした。
その弟さんが私に会いたいと言ってくださいました。「明日、広島流川教会で私の思いを分かち合いたいと思いますので、ぜひ礼拝にご出席ください」とお誘いしました。今日この礼拝に来ていらっしゃいます。
英子さんはあの日、雑魚場町(現国泰寺町)に広島市内の全校の高等学校の数千人が動員されて犠牲になったお一人なのです。そこはちょうど中心地に近く、あの時地上の温度は摂氏3000~4000度の熱でみんな焼かれてしまった場所なのです。
今日の礼拝後に皆さんに歌っていただきたいのは「主よ みもとに近づかん」(320番)という讃美歌です。それには特別な意味があるのです。あの時に何千人もの学生が瞬間に天に召されました。その時に奇跡的に生き延びた村本節子という親友が、皆さんがお亡くなりになる直前の様子を私に話してくれたことがあります。
泥水の中を
まだ生き残っている生徒たちに先生が「歩ける人は日赤病院に案内しましょう。私の肩にすがってください」と声を掛けられ、村本さんが先生の肩に触ると、筋肉も皮も皮膚もスルッと
私が広島女学院に入学したころは軍国調の雰囲気で、門を入るとコンクリートの小さな建物があり、そこに
2年生になるとほとんど勉強はなかったです。毎日のように農村へ送られ、じゃがいもを掘ったり、田植えをしたり、稲刈りをしました。また、タバコのパックを作って前戦の兵隊に送るとか、被服
あの日にどのような体験をしたかをお話ししましょう。
1945(昭和20)年4月ごろ南太平洋上にありますテニヤンとかサイパンが占領されると、遠い日本へ一即飛びに飛行機が飛んできて、焼夷弾で町を焼き尽くす戦略が始まりました。東京に始まり、大阪、名古屋と主要な都市の60パーセントは焼夷弾で焼かれたと思います。広島は10番目の都市ということになっていたのに、いつまでも攻撃されません。現実は「アメリカ軍は既に広島を新しいタイプの爆弾の対象としていて、普通の焼夷弾で焼かない事こと」との命令が本部から出ていたのです。
被爆の3週間前、生徒の中から私たち30人ほどが選ばれ、軍隊で暗号を扱う大切な仕事に従事することになりました。二葉の里(今の大須賀町)に第二総軍司令部があり、毎日暗号を作ったり解読したりして訓練を受けました。13歳の子どもが大切な日本のトップの秘密を扱う仕事を与えられたのです。考えてみると、日本がどれだけ折半詰まった立場に置かれていたかが分かります。
8月6日は月曜日で、正式な暗号解読員として働く最初の日でした。8時の朝礼で少佐から「あなたたちは選ばれて尊い仕事につく幸運を感謝せよ。素晴らしい訓練を受けて忠実な日本国民として天皇に報いる時が来たのだ。頑張れー! 」というような激励を受け、私たちは「わかりました。最善を尽くします!」と言ったその時、「パッ」と窓いっぱいに青白い
気がついた時は真っ暗闇、そして静寂。本当に静かでした。何かが起きたということは理解できましたが、身動きがとれません。重い
しばらくすると、周囲からか弱い微かな声で「お母さん助けてください」「神様助けてください」と言うクラスメートの声が聞こえ始めました。すると突然、男性が私の左肩を後ろから激しく揺さぶりながら「諦めるんじゃない、体を動かし続けろ!私はあなたが身動きできるように手伝っているのだ。梁を動かしてやっているんだ。あなたも足で蹴り押し続けろ。あそこから微かに日の光が入ってきているだろう。あれに向かって一刻も早く
暗黒でしたからどなたか顔を見ていません。どなたか分からすに今まで生きておりましたが、冒頭でお話したように八木さんのお父様だったということが、昨日判明したのです。
ようやく這って出てきた時にはすでに火の手が上がっていました。クラスメート30人ばかりは、まだ息があるうちに焼かれてしまったのです。私と同じように這い出たクラスメートが二人いて、一人はもう亡くなりましたけど、もう一人とは先週再会しました。
朝なのに、まるで夕暮れのように暗かったのです。目が慣れてきて、暗闇の中で何か黒い物が動いている物が見えました。それが人だと分かりましたが、人間に見えません。奇妙なことに女性の髪は天に向かって逆立っているのです。そして手足がなくなっている人、顔も身体も血だらけ泥だらけの人、爆風で衣類を飛ばされ裸のような人…。走っている人は一人もいません。気持ちの悪いほどの静寂の中を、皆ソロリソロリと町の中心地から郊外へ向かって歩いていました。大きな声で怒鳴っている人もいません。絞り出すように「水をください。お水を、お水を」。それだけ聞こえてきたのです。
一緒に逃げる人たちの中には、自分の目玉が出ているのを手の平で抱えるように持っている人や、バタンと地面に倒れてお腹が裂けてソーセージのように腸がはみ出している人もいました。今考えれば本当によく平気でいられたと思います。我々の精神は
とにかく二葉の里の丘の所まで逃げました。そこは騎兵隊の広い練兵場でしたが、死体がいっぱいでした。何千人でしょうか…。息のある人は皆さん「水、水、水…」と。まだ傷が浅い私たちは、近くの川に行って血や泥を洗い落とし、私達のブラウスを剥いで水に濡らし、水を求める人たちの口に持っていって吸ってもらいました。その作業を続けていると、暗い夜がやってきました。1晩中広島の町が焼け続けるのを何の感情もなく見つめて、朝が来たのを覚えています。
翌朝、兵隊がやって来て、メガホンで「中村節子はいるかー!」「ご両親だ!」って叫びます。驚きました。両親が迎えに来てくれたのでした。
父はその日、朝早く宮島の方に行って魚釣りをしていたので助かりました。母は朝食後の皿洗いをしていて生き埋めになったところを助け出されたそうです。病院に行くために疎開していた姉が前夜4歳の子どもを連れて帰っていました。姉と子どもは、その日朝早く起きて、医者の所に向かって柳橋の上を歩いている時に焼かれたのです。翌日には身体が二陪にも三倍にも腫れ上がり、二人共亡くなりました。
兵隊さんたちが穴を掘って死体を投げ込み、石油をかけてマッチを放り投げ、竹で体を動かしながら「まだ腹が焼けてないよ」「脳みそが焼けてないよ」と言いながら作業をするのです。13歳でまだ子どもの私は、両親と共にただ立って、燃える姉の身体を見つめる。その時の記憶は、長年私を苦しめました。その時のことが何度もよみがえってくるのですが、一滴の涙も流さなかったっという記憶が長い間私を苦しめました。「私は何という人間なのだろう… 」。愛する姉と甥があんな残酷に、虫ケラのように扱われながら命を失っていった。それを見ても何の反応もなく、立って眺めていた私…。非常に残酷な思い出でした。
結局、大学に進み、大学院に行って心理学を勉強し始めて、人間は究極の場ではどういう行動をとるのだろう。「なぜ私がああいう行動をとったのだろう?」と非常に興味・関心を持って学びました。
1960年代に6カ月広島に滞在し被爆者の心理を研究した米国プリンストン大学のブルース・リプトン教授は、究極の事件では思考能力はまともでも、感情が閉ざされるのだという研究成果を打ち出しました。外的刺激が巨大でありグロテスクであるがために、人間は再起を守るために心理的活動が閉鎖されるという説です。
多くの人が同じように経験したことも分かりました。佐々木さんという学友は、翌日家に帰ったら家族全員が白骨化して埋もれていたと。しかし、涙が一滴も出なかったと私に話してくれました。そういう人が随分いて、私は非人間ではなかった、あれは自然に心理的反応が起きたのだと思えるようになり救われました。
放射能というものは非常に不可思議な状態で人間を苦しめるのです。瞬間的に亡くなる人もいますが、あるいは1カ月後あるいは1年たって、また何年か後に亡くなる人もいます。その人たちは生き残って全然外傷もなく、「良かった、良かった」と皆で喜び合った人たちです。
叔父や叔母が牛田に疎開して助かったと思っていたら、10日後には身体に紫色の斑点が出てきて、苦しんで亡くなりました。母の報告によりますと内蔵がまるで腐ったかように黒いドロっとした物が絶えず体内から出てきていたということでした。当時、私たちは朝起きてまず一番に身体中隅から隅まで調べたのです。斑点が出ると死ぬのだという証明になるので、毎日毎日恐れを感じながら生きていました。
あの時の地上の温度が4,000度だったといいます。鉄が溶けるのは2~300度ですから、考えられないような温度です。600メートル上空で1,000,000度以上だったそうです。
一般的にはマッカーサー元帥はいいことをしてくださったのです。日本の軍国体制を解き民主化させました。女性の地位の向上とか経済機構の作り変えとか良いこともやってくださったのです。しかし、広島・長崎に関すること、人間にどういう影響を与えたかということを伝えることは許さなかったのです。一発で街が焼かれてしまうような優秀な爆弾を作ったことをメディアが報道するのは良かったのですが、人間にどれだけ悲惨なダメージを与えるかということを報道するのは許さなかった。
「民主化とは言論の自由」と言いながら、事実は言論をコントロールしていたのです。
苦しみを書いた俳句や詩、日記や手紙など個人的なものも没収して全部アメリカに送ってしまったのです。フイルムだとか医学的調書とか、とにかく人間の悲惨さをあの爆弾がもたらしたのかということを知らせるのは許されなかったのです。
ABCC(原爆傷害調査委員会)がアメリカによって広島市に設置されましたが、ただ原爆によって人間の身体にどういう影響を与えたかというのを研究するのみで、治療するということが目的ではなかったのです。
私は広島女学院で10年間お世話になりました。その間広島流川教会と交わり、皆さまのキリスト者としての生き方を、言葉だけではなく行動で毎日毎日繰り返していらっしゃる先生方や友達の姿を見て学びました。私は一生をかけて平和運動に尽くしてきましたけど、基本の原動力になったのはやはり広島女学院や広島流川教会で受けた感動でした。
あの苦しい時に、谷本清牧師が奮闘なさって何度もアメリカに足を運ばれて帰って来られ、孤児の世話だとか母子寮だとかの運動を始められました。教会員によっては、教会の牧師なら教会にいるべきだと言われる人もおられたそうですが、若い私にとっては聖書の御言葉を実践していらっしゃる先生の姿は尊く映りました。「実践の伴わない信仰というのは、信仰ではない」と谷本清牧師はいつもおっしゃっていました。
私が大学卒業後にアメリカに留学した1954年に、ちょうどアメリカがビキニ環礁で最も大きな水素爆弾の実験を行ったのです。アメリカに到着するやいなや記者会見があり、日本で起きた事をどう思うかと、即座に聞かれ、ナイーブな問題でしたが言いたい事を全部言ってしまったのです。その翌日から大学へ脅しの手紙がくるようになりました。「誰が奨学金を出していると思っているのだ!」「帰れ!日本に帰れ、すぐ帰れ!」など、ひどい脅しの手紙がどんどん大学に届き、私は教室に出るわけにはいかなくなり学長さんが私をかばってくださいました。匿名で届いく手紙は、全て学長の所に持って行って、私には手渡さないようにと配慮してくださいました。私は1週間ばかり一人ぼっちで先生の家で過ごし、「私はいったいどういう所に来たのだろう。広島の宣教師の先生方に『社会福祉を勉強して帰って来て広島で活動しなさい』と祝福を受けてアメリカへ来たはずなのに」と悶々としていました。
そうするうちに、「私にはやっぱり他に生きる道はない」と誓いが芽生え、「目的を達するために、ここまできた。私は被爆者であることには違いないのだ。だから、どんなに苦しめられても、私は目的を達成させる。惨めな亡くなり方をした学友たちや愛する兄弟のためにも、核兵器がグローバルな問題になってきている今こそ、被爆者としての体験や思いを、世界の皆さんに話し続けるのをやめるという卑怯な生き方はできない」。孤独の中でそう決断することできたのです。そのようなことを踏まえ、60年ばかりアメリカとカナダを基盤に、世界中で広島の体験と想いを話し続けています。
それも、
9カ国の核保有国が自分たちの都合の良いように世界を動かしています。核兵器不拡散条約ができて40年にもなりますが、未だに何も成し遂げられていません。ますます近代化し、もっと巨大な物にと化しています。勉強しなといけないですね。本当にこれ以上狂えないほど狂っているのです。 ですから、われわれは声を発さないではいられないのです。9カ国は今持っている核兵器を手放そうとしていません。しかし、嬉しいかな、この運動に入って感じるのは、核兵器をもたない国々、非核兵器保有国はもうこれ以上我慢できないという状況なのです。
核を持つ国々は、法的の責任があるのです。非核保有国はそのリーダーシップから軍縮が来ると思っていたのですが、未だに実現しない。それなら自分たちでするのだと、今13カ国が非政府団体と一緒に立ち上がっています。私も集会に呼ばれて行っています。メキシコとかオスロとか、この間ウィーンで会議がありました。そういう所では「核兵器」というと「抑止力」という軍事的な物としてしか話し合われなかったのです。それがいかに人間に
日本の教会は静かだと思います。「ただ怖い事だ、二度と起こってはいけないことだ、だから祈ります」だけでは十分ではありません。そういう自覚があれば、行動に移しましょう。
もっと声を大きくして。政府がまともな行動が出来るように我々がプレッシャーをかけて…。唯一の被爆国であるならば、先頭にたって核廃絶のために働いているはずですが、いつもアメリカの背後にあって追従ばかり続けています。悲しい現実です。私はもっと皆さんにお伝えしたいことがあったのですが…。精いっぱい生きております。
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